奥飛騨だより

神岡の名水をたずねて(2013.3月号)

2013年3月号

久しぶりに「奥飛騨便り」への投稿の順番が回ってきました。 約20名のメンバーが毎月順番で投稿させて頂いているのですが、 最近の投稿を改めて見ると自画自賛ではありますが、力作が多々あることに驚いているところです。

最近の三井金属ユアソフトの近況ですが、この時期になりますと、お客様から「神岡は大雪で雪下ろしや”雪またじ” (「またじ」とは飛騨の方言で「片付ける」ことをいいます)で大変でしょう」 との会話が電話や打合せ時に上がるようになります。 ご心配の言葉を沢山頂くのですが、今年は例年より積雪が少ない状況です。 冬の時期は日本海を渡る北西の”ちべたい”(冷たい)季節風に乗って雪が日本海を渡って運ばれてくる為、大雪になることが多いのですが、 今年は神岡に来る手前の、 北側に位置する富山地区に積雪が多くあり、神岡まで届かなかったようです。 その変わり、気温は積雪があるよりも下がった日が多く、日中の気温もプラスにならない冬日が多くありました。 会社に設置してある温度計では朝の出勤時に-15°になっていた日もあり、通勤は雪が積もっているよりも所々にある路面の凍結(アイスバーン状態)により、 いつもの慣れた雪道より、緊張もし、苦労する冬となりました。

さて、今回は身近な神岡の話題をご紹介させて頂きます。 飛騨市神岡町は、岐阜県の北東端に位置し、西側には大洞山(標高1348m)、北東側には二十五山(標高1153m)、東側には天蓋山(標高1527m)、 その更に奥には飛騨山脈(通称:北アルプス)が控え、岐阜県内最高峰の穂高岳(3190m)をはじめとして槍ヶ岳(3180m)、乗鞍岳(3026m)といった標高3000m級の山々に囲まれています。 市街地(標高400m程)を南西側から北側を横切る一級河川の高原川の流路に沿って発達した典型的な河岸段丘の地形に存在しています。 このような段丘崖には湧水が出る事が多いと言われているのですが、神岡も市街地を中心として天然の湧水が多く出ています。

特に「船津大洞湧水」と言われる湧水は、雪や雨が大洞山で熟成され、水温約11℃~14℃の湧水が年間を通じ絶えることなく湧き出しています。 この湧水は岐阜県の名水50選に選定されています。神岡町の町内には市街地を中心として、この「船津大洞湧水」を筆頭として、 水脈は違ってはいるようですが湧水を利用した共同水屋が10数箇所点在し、昔から生活用水として利用されています。

まずは、この大洞山を源泉とする「柳川水屋」(船津)を尋ねてみました。 山田川下流沿いにある、 「料亭おいもと」を右手に見ながら少し入った所に、民家に挟まれるようにして「柳川水屋」があります。 水屋の入口には「岐阜県名水50選 船津大洞湧水群」の石碑と、その横には水屋建屋と一体となった木造の椅子も設置され、 水屋の中には清掃されたきれいな神棚と、竹筒に季節の花が飾られており、足元もチリひとつない状態で、湧水口の傍には大きさの違う柄杓が3つ用意され、 水屋の清掃・管理が、この地区の人々によってされている事が良くわかります。上段が飲み水、下段が洗い物に利用するようになっている感じです。 手酌で一杯頂きましたが、真冬の時期に飲んだのでもっと冷たいと思ったのですが、ほんの少し暖かく感じ、まろやかな味わいでした。

この「柳川水屋」の中に、神岡町の名誉町民で某新聞社の論説委員となり、菊池寛賞受賞を受賞された方の一文が掛けられていました。

「大洞水道 街の両側に溝があり、水が勢いよく流れていた。私の家は新垣明治堂という商家だが、大所と洗面所の水道の水は昼夜を分かたず二十四時間流れっ放しである。 貯水池式ではなく、大洞山のどてっ腹に横穴をあけて、地下水脈から湧き出る水を鉄管でそのまま各戸に直接配水しているわけだ。 ことし(昭和54年)喜寿の私が子供のころからだから、半世紀以上、よく水が涸れないものだと感心する。 帰郷すると先ずこの水をコップに一杯グーッと一息に飲む。世界中で一番うまい水だ。 神岡町名誉町民 XXXX」

昔から生活に根付いた湧水として、利用されていた事がよくわかる一文です。

次は、共同水屋の中でも、賑わいのある西里商店街から一番近い「牛ヶ口水屋」(神岡町相生町)を尋ねました。 湧水の出る上段の取水口は鯉を模っており、鯉の口からこんこんと湧水が絶えることなく出ており、右上から、飲み水、漬物の菜を洗う菜洗い、 洗濯と様々な用途に利用出来るよう間口も洗い場も開放的で広さが印象的です。私の小さい頃には夏場には胡瓜やトマトやスイカが水槽で無造作に冷やされ、 冬には近所のおばさん達が大根や白菜を持ち寄り、他愛のない井戸端会議をしながらたわしで洗っていた風景もありましたが、 今回尋ねた時期(1月下旬)が悪かったのでしょうか、それともそのような風景は時代の変化もあり、もう無くなってしまったのでしょうか。

この「牛ヶ口」水屋の由来が看板に記載されていましたので、書き写しました。

「現在の相生町のこの地域は、昭和初期頃までは「牛ヶ口」と呼ばれていました。今から三百年程前(元禄7年)当時の幕府が田畑から厳重な年貢を徴収するための基本台帳ともいえる「元禄検水地帳」に、 この地が「船津町村字牛ヶ口」と記載されています。今の富士ヶ丘辺りの川淵に、牛の背に良く似た黒い大岩があったので「牛ヶ淵」が「牛ヶ口」になったという説や、 又富山から越中東街道を通って塩や魚など多くの物資を運んだ牛方衆が、この町口にあった相生町を「牛ヶ口」と呼んだのが地名となり、「元禄検水地帳」に記載されたという説もあります。 この水屋の水源は朝浦平の西小学校付近一帯の地下に劣岩帯が走っており、四十米の隋道を横に堀り進んで、土壌から劣岩を伝わって落ちる水滴を集めて、現在の水槽まで誘導し水源としています。 水量は農業の減反政策や水田から畑地への移換などで著しく減少しましたが、三百年間一度も断水することなく年間14℃の平均水温を保って流れ出て現在に至っています。 今後も「牛ヶ口」水屋として、末永く親しんで頂ける事を願っております。」

この文書の末尾に水屋組合員の9名の名前が記載されていましたが、「柳川水屋」同様に隋道と水屋の管理を維持管理されていることに感謝して、一杯の水を頂きました。

他にも「幸土泉水」「栄町水屋」「大津町水屋」「上今水屋」「千歳水屋」「権七水」「義民水」「梨ヶ根水屋」「桜町の水屋」「千歳の水屋」 と市街地のあちこちに水屋が点在しています。 町内には自宅へこの湧水を引き入れている家も多くあり、水には不自由していなかった当時の生活に思いを馳せ、小さな散歩を楽しみました。

出典:地下水学会誌(第53巻1号)、Wikipedia

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